コリント第一5章

5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

 ここからは、不品行の問題について取り上げています。父の妻を妻にしているものがいたのです。

 なお、父の妻は、実母でないと考えられます。もしそうならばそのように記します。

 

5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。

→「そして、あなた方は、高ぶっていて、そして、悲しむこともなく、そのようにして、そのような行いをしてる者をあなた方の中から取り除かなかった。」

 高ぶっている結果、取り除かないという明確な結果となったのです。

 コリントの教会は、この問題に対して何も対処しませんでした。その原因は、誇り高ぶっていたからです。彼らが自分を誇り、高ぶっていたことは、四章に記されています。彼らは、肉によって行動していました。自分を高くし、また、人を妬み、肉の誇りを求めていたのです。その結果、そのような人を取り除くことがなかったのです。悲しむことさえありませんでした。

 六節にも、高慢が原因でパン種を取り除くことがなかったことが示されています。

 肉により誇り高ぶることを求める人にとって、全ては自己中心なのです。教会全体のことを考えてはいません。

・「誇り高ぶって」→吹いて膨らませる;(比喩的に)自己中心的な人が傲慢な(「膨れ上がった」)考えを吐き出すように、膨れ上がる。Aorist Subjunctive:歴史も継続もない行為。純粋な形。別の行動の結果として起こる明確な結果。

5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。

 冒頭に、「私」と主格が記されています。通常は省かれますが、パウロがどうしたかが強調されています。

 動詞は、「そこにいる」ですが、「心→霊」が与格として続きます。「私は、霊によってそこにおり」この場合、与格は、行為者を表します。

・「心」→霊。与格。

5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、

 →「あなた方と私の霊が共に集まっている私たちの主イエスの名のもとに、私たちの主イエスの権能によって」

 主の名の下に集うことは、特定の場所に集うことを意味しません。会合として教会に集まることはあります。それが全てではありません。各自が家庭や職場にあるときでさえ、主の名の下に集まることは継続しているのです。その意味で、パウロは、距離的に遠く離れた場所にいましたが、コリントの信者と共に主の名の下に集っていたのです。それで、霊において共にいたのです。

 パウロは、使徒ですから、コリントの教会に対して権限を持ち、責任を負っていました。それで、パウロは、このような行いをした人を裁いたのです。使徒以外の者が、他の教会に対して権限を持ち、責任を負うことはありません。

・「集まった時」→アオリスト分詞。ある時の一時的な集まりでなく、主の名の下に継続して集っていることを表しています。

5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

 サタンに引き渡したことは、教会の交わりの外に出したことです。もはや信者として交わらないのです。そのような厳しい処理を取る目的は、彼の肉が滅ぼされるためです。すなわち、彼自身が自らの罪を省み、そのような歩みを捨てて、肉を殺すためです。肉が滅ぼされると表現しているように、肉によって罪を犯す歩みを、殺すのです。そうして、神の御心を行う歩みをするようになり、主の日に彼が裁きを受けたとき、報いを受けるようになるためです。主の日の救いは、なした歩みに対して良い評価を受け、報いを受けることです。肉によって生きていたら、その報いを受けることはありません。

5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

 彼らが高慢になっていたために、教会の中でのパン種を放置しておきました。自分のことにしか目が向いていなかったからです。教会全体の清さが保たれることに関心を向けていませんでした。しかし、彼らが無視していたわずかなパン種が教会全体に影響を及ぼすようになることを警告しました。

5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

 新しい粉は、清さを表しています。そのために古いパン種を除くのです。それは、教会の信者は、パン種のないものとされているからです。そのことを過越と関連づけ、種なしパンの祭りが表している比喩を示しました。その祭りの期間は、パン種が除かれます。過越が表すように、キリストが屠られ、贖いの業が実現しました。キリストを信じる者は、義とされます。そして、キリストを信じて歩む者は、肉にはよらず聖霊によって歩む者とされているのです。パン種がない者とされているのです。

 なお、自分には、肉があるので清い歩みはできないと考える人は、自分が信仰により御霊によって歩むことで肉を殺し、神の御心を行うことができるということを信じていないのです。そのことを信じて清く歩むのが本来の信者の姿なのです。パン種のない者なのです。

5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

 古いパン種を用いることは、不品行のような肉欲による行いをすることです。肉欲が古いパン種です。

 悪意と不正は、心から出てくる悪い考えによります。

 純粋で真実なパンは、パン種が入らないパンです。祭りを行うことは、教会全体の歩みです。その日には、イスラエル全体が主の前に集うのです。それによって、信者が受けている祝福を覚えるとともに、神に栄光を帰すことになります。それは、個々の信者の清い歩みに依存していて、パン種が入らないことが求められています。

5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。

5:10 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。

5:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。

 悪い人は、交際せずに、教会の中から除くのですが、その対象となる悪い行為について示されています。

「不品行な者」→男娼。(売るから。)新約聖書では、あらゆる婚外性交のこと。

「貪欲な者」→-「貪欲な、欲しがる、強欲な、人。詐欺師、他人の権利を踏みにじる」。

「偶像礼拝する者」→(文字通りの意味でも比喩的な意味でも)像(のしもべ、または)崇拝者。偶像崇拝者。

「人を誹る」→非難(ののしり)。誹謗、罵倒する侮辱によって他人の評判を傷つけること。苦い(無味乾燥な)発言を吐く。意地の悪い侮辱的な言葉を使って士気を下げる(屈辱を与える)。

「酒に酔う者」→酔っ払い。大酒飲み。

「略奪する者」→(強盗のように)突然ひったくること。力ずくで奪い取る。

5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。

5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

 そのように、教会には、内部の人を裁くことが求められています。外部の人たちは、神が裁きます。